僕は鳥になりたかった。
大空を飛んでかなたまで。
海を渡って隣の島まで。
ぼくは飛んでいきたかった。

春―僕は静かな少女に逢った。
少女は桜の木下で現に眠り、空を仰いでいた。
ぐったりと力の抜けたその体に一瞬、幻惑かと思った。
ぼくが息を潜めて彼女を見ていたら、
彼女はそっとその深い色をしたまつげを開いて、
群青よりも澄み切った瞳でぼくを見た。
「だれ・・・?」
「君こそ・・、誰」
ここは病院だぜ、とぼくは言おうと思った。
だって彼女の服装はあまりに現実的でなかったから。
赤く染まったスカーフのその愛らしさと
白い棒のような足がにょっきり伸びているスカート。
彼女は古めかしいトマトの腐った色をしたセーラー服を着ていた。
誰かのお見舞いかしら。
それにしたって桜の下で眠っているなんて、変だよ。
彼女はじっと下からぼくを見上げて、物憂げにふっと笑った。
その目の色が桜を映して桃色に染まる。
「あなたかんじゃね」
患者、ではなくかんじゃと彼女は発音した。
「となりに座ってもいい?」
意外なことに、ぼくはそうつぶやいていた。
彼女の頬が赤い色をしていることに、何か関係があるのかもしれない。
彼女は上半身で起き上がってずりずりと横にはいずった。
「スワンナヨ」
座ると何も言うことがなくなってしまった。
ぼくらはじっと空を見上げて、桜を見ていた。
その一枚一枚がきりきり舞いながら落ちていく所を。
「さくらすき?」
唐突に彼女が聞く。
空気に触れたとたん広がるような声をして。
「桜はあんまり好きじゃないよ」
「なんで」
「すぐに散っちゃうよ」
ぼくらはまた黙ってじっと空を見た。
キレイなつきがゆっくりと青白く染まっていった。
昼間の月から夜の月に。
太陽が炎のように美しく、地平やビルの谷間を染めながら沈んでいく。
太陽が沈んでいく様は蚊にさされて掻きすぎた皮膚を思わせる。
それがなんでか物悲しい。
「夕暮れよりさくらは夜のほうがキレイなのよ」
「そうなの」
「雨が降ってると最高ね、雪でもいいけど」
「雪が降っているときに桜を見たことがあるの?」
「一度だけね」
桜はただ黙って散っていった。

次の日。
彼女とどうやって別れたのか思い出そうとしながら
ぼくは病院の光った床を歩いていた。
消毒の匂いは嫌いじゃない。
リニウムだかリジウムだかいう廊下から裏庭に。
彼女の居たあの桜の木の下まで歩いた。
歩くのは嫌いじゃない。
彼女はいなかった。あたりまえだけどぼくは残念に思った。
やっぱり誰かのお見舞いだったのだ。
だからもう彼女には会えないのだ。
そしてその時発作が起こった。

発作が起こると全身の骨が折れそうになる。
皮膚から筋肉が放れて、体中がばらばらになりそうになる。
痛くて涙がでるけどその涙の感触を味わっているひまはない。
視界がうすぐらくなって口の中にさびの味が広がる。
もしかしたらぼくはさびていっているのかも知れない。
妙に冷静に熱い頭のむこうっかわで、ぼくが考えている。

先生がこなければきっとばらばらになっていたよ。

安定剤と鎮痛剤をそれぞれちうっと注射され、
ぼくはゆっくり眠りについていた。
とろとろとトロケルヨウナとろみのある時間の中で、
ゆっくり灰になるように、沈んでいく感覚を味わっていた。
全ては灰色で、所々銀だった。
痛みの去った体は天使のようにぼくを包んでいる。
なぜか彼女の夢を見た。
夢の中で彼女は銀色の靴を探していた。
ソレガ 見ツカッタラ アナタハ 治ルノヨ
彼女の沈んでいく鳥のような声。
小さな亀裂が走ったような地平線。
ぼくは治るの?
ナオラナイカモシレナイ
治らないの
治るかもしれない

なぜぼくは普通の体に生まれなかったんだろう
なぜぼくはとても痛いんだろう
なぜぼくはこんなにつらいんだろう

もう一度、彼女に会いたかった。

発作が起こったのでしばらく静かにしているように、
と言われてぼくはベッドの上で、絵を描いていた。
彼女を描こうとしたけれど、あの藍色の目だけは思い出せるのに
全部がどうしても思い出せなくって、
しかたなくぼくは藍色で彼女を塗った
ベッドの上に絵の具がたれて、青い青いしみを作った

いつか体温計が折れたことがある。
ぼくの体から出そうとして、ぱきっと音を立てて
体温計は折れた。
水銀が散らばって夢のようにベッドを滑った。
銀色の小さなつぶがすらりすらりと流れていった。
看護婦はそれを見てむっとしたように
(まったくあたしがなんでこんな馬鹿な奴の後始末を)
シーツを変えて、体温計を持っていった。
アノ体温計はどうなったんだろう。アノ銀色のつぶたちは。

看護婦が優しくないってことはもう幻でもうわさでもなく
ぼくには現実だった。
彼女たちは天使ではなく人間なのだ。
怒もするし、いやな奴もいる。
そしてよくぼくは彼女たちがうわさしているのを聞いた。
いやな上司、いやな仕事。
1回聞いている所がばれてしまったとき、
彼女たちはぎくりとして確かめるようにぼくに話し掛けた。
あら、こんなところでなにしているの
(聞いてたの?)
写生?そう、あっちのほうが綺麗よ
(聞いてたの?)
彼女たちは天使ではない。ストレスのたまった人間だ。

だからぼくは病院が嫌いだった。

彼女たちが嫌いだったんじゃない・・・ただ
この病院だけかもしれないけど。
みんな命にぎすぎすして、緊張していて
一生懸命で、ぼくは楽に生きられなかった。

入院した日の一番目、ぼくは悪夢を見たらしい。
らしいというのは他の人がうなされていたわよ、って言って
(そのときは大部屋だった)
呼んでいたわよ、って言ったからだ。
僕自身はちっとも覚えていないんだけど。
呼んでいたのは誰だったか、忘れてしまった。
お母さんじゃない、意外な人を呼んでいた、と言われた。
あれはダレダッタッケ。

ぼくはしみを指でなぞって想い出を考えていた。
ぼくの思いではぼくが消えても消えないといい。
それは誰かにふれたらはじけるのだ。
銀のあのつぶのように。
彼女の声のように。

明日手術するよ、と言われたのはその日の午後のことだった。
医者は深刻な顔をして、50%と言った。
その声の重みがぼくはいやだな、と思った。
そうですか、とお母さんが無表情に言って
(彼女はまったくぼくを心配することに疲れすぎている)
やってくださいって言った。
窓から見たらもう夕暮れで、烏が遠くを飛んでいた。
かぁ、かぁ。かぁ、かぁ。
その声が物悲しい。

その夜、母さんが帰った後。
とても暗い病室で、窓の外から、そして廊下から
眩しい光が漏れている。
僕は息を殺して人々の寝息を聞いていた。
しくしくと誰かが泣いている。
子供たちの多くが母を恋しがり、夜に泣きじゃくる。
なぜ僕等はとらわれているの?
なぜままのところにいけないの?
その答えをみんな知らない。
ただ不運だったんだよと、
車に轢かれるぐらいの確率で、不運にぶつかってしまったんだよと。
僕は夜にそっと起き出した。


誰にも会わなかったことが奇跡のようだ。
ナースセンターの看護婦たちも、なにかトラブルがあったらしくて
会議の真似事をしていて僕には気がつかなかった。
桜の木は、悠然と黒々と不吉に立っていた。
僕が笑って幹に触れると、桜はさわさわと風に揺れて
真っ暗な夜に発光する花びらをちりちり落とした。
その柔らかさ。
ぼくは幹にもたれかかって目をつぶった。
50%のことを考えた。彼女のことを考えた。
そして彼女が来た。
訪れた途端に彼女の足元が光輝いたようだった。
彼女は裸足で、やっぱり茶色のセーラー服だった。
「きれいね、桜」
「・・・うん」
「貴方は死ぬの?」
音に響いて広がる彼女の声。
死ぬの?
死ぬの?
死ぬの?
死ぬ・・・・。
ふいに、
どうしようもない焦燥と悲しさが心に満ちた。
透明な液が心に満ちて、ひたんひたんひたんひたんと揺れている。
僕は鳥になりたかった。
鳥になれば自由になれると思っていた。
ぼくのこの、体から。
どうしようもない!
何があるというのだろう、ぼくはぼくでぼくではないのだ。
欠陥品のぼく。ちっぽけで卑屈なぼく。
「貴方はきっととりになるわ」
「とり・・・?なれるの」
「なれるわ、望めば誰だって鳥になれるのよ」
空を飛んでく鳥になれるわ。
彼女は微笑みながら、目を細めた。
風がごおっと吹いて、彼女を包んだ。
散った桜の桃色が、彼女の風にとりまいていく。
「ぼくは鳥になれるの!?」
「なれるわ」
なれるわ
こっちへ来れば
彼女が手を差し出す。
その白い手のひらに僕は見とれる。
闇の中でそれだけが光って輝いている。
煌く皮膚に、桜の花びらが貼りつき、痣になっていく。
「いらっしゃい」
「そっちに行けば、鳥になれるの?」
「鳥になれるわ。桜の鳥に」
ぼくは悲鳴をあげた。
「だけどぼくは鳥になんてなりたくない
鳥になんてなりたくないんだ
ぼくはぼくのまんまで生きたかったんだ
ぼくはぼくのまんまでみんなに認められたかったんだ!!!!」
ごうごうごうごう風がうなる。
空に舞った桜が全て、風の中に巻き込まれていく。
「ぼくはぼくで居たかったんだ」
ぼくのまんまで生きた・・・い

ちゅん、ちゅん、ちゅん、ちゅん
小鳥のさえずりでぼくはうっと目を開けた。
眩しい朝日がきらめきながら目を射抜く。
「うう・・・」
「あら。起きたの?」
看護婦サン。
「今日、お昼から手術よね」
「・・・・」
「恐がることはないからね、大丈夫よ」
「ぼくは・・・」
ここで寝ていたの?
あれは・・・、夢だったのか
鮮やかに彼女と桜吹雪が思い出される。
「あら」
窓の外をちらりとのぞいた看護婦が言った。
「桜、全部散っちゃったみたいね。昨日は風が強かったから」
「ねぇ、昨日、夜中に会議してた?」
「あら、なんで知ってるの?」
夜更かしはだめよ。
そう言って看護婦は笑った。
ぼくはぼんやりと自分の腕を見た。
ぼくに差し出された腕をなぜぼくは取らなかったんだろう。
病弱に白い僕の腕に、鮮やかな桜の花びらがはりついていた。
取ろうとして引掻くとそれは痣だった。
ぼくはきゅうっとベッドに突っ伏した。

~空の上で誰かがしゃべっている~
とりそこねたね
いいさ、魂なんてごろごろしてるんだから
彼は手術に耐えられるかしら
耐えられるさ、死神の





おすみつきさ